虚数の涙 -Imaginary Tears-

Drama 14 to 20 years old 2000 to 5000 words Japanese

Story Content

冷たい雨がアスファルトを叩きつける夜だった。駅前の雑踏の中、優希は人混みを避けるように、傘を深く差していた。彼女の目には、街灯の光も、ネオンサインも、どこかぼやけて映っていた。明日もまた、数学の小テストがある。憂鬱だった。
その時、彼は、傘を持たずにずぶ濡れになって立っていた。ぼんやりと街灯を見上げる横顔は、まるで彫刻のように美しかったが、どこか壊れそうに見えた。それが、湊だった。
優希は躊躇しながらも、傘を彼の頭上に差し出した。「あの…傘、どうぞ。」
湊は驚いたように顔を上げた。濡れたまつげが、宝石のように光っていた。「あ…ありがとう。」
それが、優希と湊の出会いだった。
それから毎日、二人は駅で会うようになった。湊はいつもそこにいて、雨の日も風の日も、ただ一人、佇んでいた。
湊は、驚くほど数学の才能に恵まれていた。難解な数式をいとも簡単に解き、独創的な理論を次々と生み出した。優希はそんな彼に、尊敬の念を抱いていた。
しかし、湊は常にどこか苦しそうだった。周囲の期待、プレッシャー、そして何よりも、自分自身に対する不信感。優希は、彼の心の闇に、かすかに触れた気がした。
ある日、湊はぽつりと呟いた。「僕は…数学者にはなれない。」
優希は驚いて聞き返した。「どうして?あんなに才能があるのに…。」
湊は自嘲気味に笑った。「才能だけじゃ、駄目なんだ。僕は…弱すぎる。」
それから、二人の間に奇妙な依存関係が生まれた。湊は優希に、自分の弱さや苦しみを打ち明けるようになった。優希は、彼の言葉に耳を傾け、できる限りの励ましを与えた。優希は湊を必要とし、湊は優希を心の支えとした。お互いの存在が、暗闇の中で唯一の光だった。
優希は、湊に惹かれていた。彼の才能、脆さ、そして、孤独。しかし、それが本当に恋愛なのか、ただの依存なのか、優希には分からなかった。毎晩、自問自答を繰り返した。
湊もまた、優希に特別な感情を抱いていた。優希は、誰よりも自分のことを理解し、支えてくれる存在だった。しかし、彼は、自分が優希を依存させているのではないか、と恐れていた。そして、その恐れは、次第に彼自身を蝕んでいった。
ある日、優希は湊の腕に、無数の傷跡を見つけてしまった。自傷行為の痕だった。衝撃を受けた優希は、湊に問い詰めた。「これは…どうしたの?」
湊は目を伏せ、小さく呟いた。「…ごめん。」
優希は涙をこらえながら、湊を抱きしめた。「もう、そんなことしないで。」
しかし、湊の心の闇は、あまりにも深すぎた。優希の言葉は、彼の心には届かなかった。
次第に、湊の様子がおかしくなっていった。学校を休みがちになり、優希との連絡も途絶えがちになった。優希は不安になり、湊の家を訪ねた。
湊の部屋は、荒れ果てていた。散乱した教科書、ゴミの山、そして、壁には無数の数式が書き殴られていた。湊は、ベッドの上で丸くなっていた。顔色は悪く、目はうつろだった。
「湊…。」優希はそっと声をかけた。
湊はゆっくりと顔を上げた。「優希…。」
湊は、力なく笑った。「僕は…もう、駄目だ。」
優希は、湊の手を握りしめた。「そんなことない。私と一緒に、乗り越えよう。」
湊は首を横に振った。「無理だ。僕は…壊れている。」
湊は、自分の過去を語り始めた。幼い頃から、周囲の期待を一身に背負い、プレッシャーに押しつぶされそうになりながら生きてきたこと。誰にも弱音を吐けず、孤独の中で苦しんできたこと。そして、その苦しみを紛らわせるために、自傷行為に走ってしまったこと。
優希は、ただ黙って、彼の言葉に耳を傾けた。彼女には、湊の痛みが、痛いほど分かった。
「僕は…優希に依存している。優希がいなかったら、僕は生きていけない。でも…それは、優希を苦しめることになる。だから…僕は、消えなければならない。」
湊は、そう言うと、急に立ち上がり、窓を開け放った。
「湊!何を考えてるの!?」優希は慌てて湊を止めようとした。
「さよなら…優希。」湊は、そう言うと、窓から身を投げ出そうとした。
優希は必死に湊に飛びつき、彼を抱きしめた。「駄目!死んじゃ駄目!私がいる!私がいるから!」
湊は、優希の腕の中で泣き崩れた。「ごめん…ごめん…。」
優希は、湊をしっかりと抱きしめ、優しく語りかけた。「大丈夫。もう、一人じゃない。私が、ずっと一緒にいるから。」
それから、二人は一緒に、カウンセリングに通うようになった。湊は、自分の過去と向き合い、少しずつ心の傷を癒していった。優希は、湊の隣で、彼の成長を見守り続けた。
時間はかかったが、湊は徐々に回復していった。学校にも通えるようになり、再び数学の研究に打ち込むようになった。そして、優希との関係も、少しずつ変化していった。
ある日、湊は優希に言った。「優希…君のおかげで、僕はもう一度、生きることができた。本当に、感謝している。」
優希は照れながら言った。「私は、何もしていないよ。ただ、一緒にいただけ。」
湊は、優希の手を握りしめた。「そんなことない。君は、僕の光だ。」
湊は、優希を見つめた。その瞳には、かつての苦しみは消え、希望の光が宿っていた。初めて会ったときに、これが依存なのか恋愛なのだろうかと悩んだ優希は、今ではそれがどちらでも良いと思えるようになっていた。
そして、湊は、勇気を振り絞って、言った。「優希…僕と、付き合ってくれないか。」
優希は、涙をこらえながら、頷いた。「うん。」
冷たい雨は、いつの間にか止んでいた。星空が、二人の未来を祝福するように、輝いていた。
二人は寄り添い、ゆっくりと歩き出した。二人の間には、確かな絆が結ばれていた。それは、依存でも恋愛でもなく、もっと深い、魂の繋がりだった。
彼らはまだ若い。これから、たくさんの困難が待ち受けているかもしれない。しかし、二人はもう、一人ではない。互いを支え合い、共に未来を歩んでいくことができる。虚数の涙は、やがて美しい虹へと変わるだろう。
数年後、湊は念願の数学者になり、優希と共に、幸せな日々を送っている。彼の研究室の壁には、優希との出会いを記念する、特別な数式が飾られている。
そして、二人は、自分たちと同じように苦しんでいる人々を救うために、活動を続けている。彼らの経験は、多くの人々に勇気と希望を与えている。
たとえどんなに深い闇の中にいても、必ず光は見つかる。互いを信じ、支え合えば、どんな困難も乗り越えられる。それが、優希と湊の物語が教えてくれることだ。